水墨画を公募展に初めて出品するとき、最も難しいのは「何を描くか」ではなく「なぜ描くか」を問い続けることだと私は思う。公募展「美は国境を越えて2026」への出品作として、私・Jinが選んだテーマは、東洋と西洋の幻獣の対峙だった。
"Whispered only in legends, this beast now steps out of night and into the living world."
— 作品「Nue」本文テキストより
結論から言えば、この出品は私にとってこれまでの水墨画制作の集大成であり、同時に新たな問いの始まりだった。墨と西洋書道(カリグラフィー)という、本来であれば交わらない二つの表現が、一枚の和紙の上で緊張しながら共存する——その試みが、どのように生まれ、どのような形で完成したのかをここに記録する。
「美は国境を越えて」とは、文化・国籍・技法の壁を越えた美の表現を問う公募展だ。出品資格は公募形式で、作品形式は軸装を基本としながら立体作品も受け付けるという、水墨画の文脈では珍しい懐の深さを持つ展覧会である。
私がこの公募展を選んだのは、そのタイトルそのものが私の制作課題と重なったからだ。長年、水墨画という東洋固有の表現言語を使いながら、西洋の美意識や文字文化との対話を模索してきた。「美は国境を越えるか」という問いは、私自身への問いかけでもあった。
今回出品した作品は2点一対の構成だ。向かって左に「Nue(鵺)」、右に「Cockatrice(コカトリス)」。深い墨の黒を背景に、白く浮かび上がる幻獣たちが互いを見据えている。
鵺とは、日本の古典に登場する妖怪のことで、猿の顔・狸の胴・虎の手足・蛇の尾を持ち、夜に不吉な声で鳴くとされる複合的な怪物だ。平家物語にも登場するこの幻獣は、「異形であること」の象徴として日本人の想像力の中に深く刻まれてきた。一方、コカトリスとは西洋の紋章学・中世神話に登場する幻獣で、鶏の頭・翼・ドラゴンの胴・蛇の尾を持ち、その眼差しだけで生者を石に変えると伝えられる。
この二体の幻獣を選んだのは、「複数の生き物の特徴を持つ複合体」という構造が東西で共鳴しているからだ。どちらも単一の種ではなく、異質なものが一体に融合した存在であり、それ自体が「境界の越境」を象徴している。東洋と西洋、それぞれの文化が生み出した「混沌の化身」を向かい合わせることで、作品全体に文化的な緊張感が宿ることを意図した。
今回の作品で最も挑戦的だったのは、水墨画の筆致とカリグラフィーを同一画面に収めることだった。水墨画においては、余白こそが「語る空間」であり、線の外側に広がる何も描かれていない部分が作品の呼吸となる。対してカリグラフィーは、文字という記号を造形として昇華する表現であり、余白を「文字の間隔」として構造化する。この二つの美意識は、根本的なところで向かい合う性質を持っている。
「Nue」の画面には英語のテキストがゴールドのカリグラフィーで書き入れられている。
"A creature born from nightmares — the face of a monkey, the body of a raccoon dog, the limbs of a tiger, the tail of a serpent, and on its back, wings that thunder through the night."
このテキストは単なる説明文ではない。視覚的な要素として幻獣の体に絡みつくように配置することで、文字そのものが鵺の「複合性」を体現するよう設計されている。カリグラフィーの曲線と、水墨の筆線が画面上で干渉しすぎないよう、テキストを置く「間」の設計には特に慎重を期した。
「Cockatrice」では、幻獣の眼に金色の一点を置いた。石化の眼差しを象徴するこの小さな輝きが、深い墨の背景の中で最も強い視線の焦点となっている。鑑賞者の目が作品に入ったとき、最初にこの金の眼に引きつけられ、そこから幻獣の全体像へと視線が広がっていく——そういう動線を意識した構図だ。
2点を対として展示する構図は、鵺とコカトリスが互いに向き合う形になるよう設計した。それぞれの作品単体でも成立するが、2点並べて鑑賞したとき、東と西が対峙する「場」が生まれる。この緊張感そのものが、公募展のテーマ「美は国境を越えて」への私なりの回答だ。
水墨画において「間(ま)」とは、単なる空白ではなく、エネルギーが充填された時空間だ。2点の作品の物理的な隙間にも、東洋と西洋の幻獣が睨み合う緊張の「間」が宿るよう、壁面での配置距離についても展示担当者と綿密に協議した。
今回の出品形式は軸装を基本とする公募展だったため、初めて軸装で公募展に挑む方の参考になるよう、準備に関してまとめておく。
作品裏面のラベルには展示会名・作品タイトル・作家名・連絡先を必ず記載し、搬入時の混同を防ぐ。また、軸装作品を輸送する際は専用の軸箱(桐箱が理想)に収め、振動対策として内側に薄い緩衝材を入れると安心だ。
私はこれらの準備知識を師との制作を通じて体得し、実際の搬入・展示経験の中で精度を上げてきた。机上の情報ではなく、和紙と墨の実際の挙動を身体で知っている者としての実務的な知見であることを明記しておく。
「美は国境を越えて2026」への出品を通じて、私が最も強く再確認したのは、水墨画という表現形式自体がすでに「越境的」であるということだ。墨と水だけで宇宙を表現しようとする東洋の感性は、言語や文化を超えて人の心に届く普遍性を持っている。
そこにカリグラフィーというもう一つの「線の芸術」を加えることで、画面は新たな層を得た。鵺とコカトリスは幻獣だから現実には存在しない。しかし、それぞれの文化が「こんなものがいるかもしれない」と想像した恐怖と畏敬の産物として、二体は確かにリアルだ。その共鳴こそが、「美は国境を越える」という命題への、私なりの肯定だと思っている。
国際公募展「美は国境を越えて2026」
会場:東京国立新美術館