伊藤若冲《果蔬涅槃図》とは|大根の釈迦と野菜・果物で描いた水墨の涅槃図
伊藤若冲の水墨画《果蔬涅槃図》を解説。伏せた籠の上の二股大根が釈迦、8本のトウモロコシが沙羅双樹。なぜ釈迦は大根なのか、60種以上の野菜と果物の見立て、筋目描きなど水墨画としての見どころを出典つきで紹介します。

伊藤若冲《果蔬涅槃図》(かそねはんず)は、釈迦の入滅を描く「涅槃図」を、野菜と果物で描き替えた水墨画です。画面中央で伏せた籠の上に横たわる二股大根が釈迦、上部に並ぶ8本のトウモロコシが沙羅双樹にあたります。京都国立博物館が所蔵する重要文化財です。
若冲というと、国宝「動植綵絵」(絹本着色の30幅)のような色鮮やかな花鳥画を思い浮かべる方も多いでしょう。けれど京都国立博物館の解説は、若冲が水墨画でも新しい境地をひらいたと紹介しています。この記事では、水墨画メディアの視点から《果蔬涅槃図》を読み解きます。
この記事で分かること。
- 《果蔬涅槃図》がどんな絵で、何を何に見立てているか
- 画面の中で探したい野菜と果物
- なぜ釈迦が大根なのか(いくつかの説)
- 濃淡の配分や筋目描きなど、水墨画としての見どころ
(図:伊藤若冲《果蔬涅槃図》江戸時代 紙本墨画 京都国立博物館蔵 重要文化財/出典:ColBase。記事冒頭の画像は ColBase の画像をトリミング・加工して作成)
果蔬涅槃図とは|野菜と果物で描かれた釈迦の涅槃
ひとことで言うと:二股大根を釈迦に見立てた水墨画
「果蔬(かそ)」は野菜と果物のことです。涅槃図に描かれる釈迦も沙羅双樹も、嘆き悲しむ者たちも、すべて野菜と果物に置き換えられています。
京都国立博物館 館蔵品データベースは、本図を釈迦涅槃図に見立てて野草や果物を配した作品とし、「戯画の一種とみてもよい」と説明しています。
基本データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 作品名 | 果蔬涅槃図(かそねはんず) |
| 作者 | 伊藤若冲(1716〜1800) |
| 時代 | 江戸時代 |
| 品質形状 | 紙本墨画・1幅 |
| 法量 | 縦182.4cm × 横96.3cm |
| 印章 | 「藤汝釣印」「若沖居士」 |
| 所蔵 | 京都国立博物館 |
| 指定 | 重要文化財 |
水墨画・墨絵・日本画といった用語の違いは、水墨画と墨絵の違いで整理しています。
涅槃図と「見立て涅槃図」|何を描き替えた絵なのか
涅槃図とは:釈迦の入滅を嘆く者たちの絵
涅槃図は、釈迦が亡くなる(入滅する)場面を描いた仏画です。横たわる釈迦のまわりに沙羅双樹が立ち、菩薩や羅漢、動物たちが別れを嘆きます。
伊藤信博氏の論文によれば、釈迦の入滅の日とされる旧暦2月15日の涅槃会では、涅槃図を掲げて絵解きが行われ、涅槃図の前には野菜や果物が置かれました。
見立て涅槃図の系譜(業平涅槃図・芭蕉涅槃図)
「見立て」とは、あるものを使って別のものを表すことです。落語家が扇子を箸に見立てて、蕎麦を食べるしぐさをするのと同じ発想です。
江戸時代には、涅槃図の釈迦をほかの人物などに置き換えた「見立て涅槃図」が描かれました。英一蝶の「業平涅槃図」(江戸中期)や、鈴木芙蓉の「芭蕉涅槃図」(江戸後期)がその例です。伊藤信博氏の論文によれば、《果蔬涅槃図》もこの見立て涅槃図に分類されます。
戯画か、祈りか:二つの見方
見立て涅槃図は、追悼を笑いに転じる作品群の一つとも考えられてきました。京都国立博物館の解説も、本図を戯画の一種とみることができるとしています。
一方、e国宝の解説は、パロディではないと強調されることが多いと述べたうえで、真剣な制作の動機とユーモアは両立しうると記しています。
画面を読み解く|二股大根の釈迦とトウモロコシの沙羅双樹
e国宝の解説をもとに、見立ての対応を整理します。
| 涅槃図の要素 | 《果蔬涅槃図》では |
|---|---|
| 横たわる釈迦 | 伏せた籠の上の二股大根 |
| 沙羅双樹 | 8本のトウモロコシ |
| 嘆く菩薩・羅漢・動物たち | さまざまな野菜と果物 |
中央:伏せた籠の上の二股大根

(図:《果蔬涅槃図》部分 伏せた籠の上の二股大根/出典:ColBase の画像をトリミング)
画面の中央には、編み目のある籠が伏せて置かれ、その上に二股に分かれた大根が横たわっています。伊藤信博氏の論文は、この伏せた籠を釈迦の寝台にあたるものと読んでいます。
上部:8本のトウモロコシ
(図:《果蔬涅槃図》部分 沙羅双樹にあたる8本のトウモロコシ/出典:ColBase の画像をトリミング)
画面の上部に並ぶ、節のある茎と長く垂れる葉をもつトウモロコシが沙羅双樹にあたります。画面の左上には、若冲の印章が2つ押されています。
e国宝の解説は、画面左上の丸い果物について、釈迦の錫杖と鉢を入れた包みが沙羅双樹に提げられた様子を表したものだろう、と推定しています。
周囲:嘆く菩薩・羅漢・動物になった野菜と果物
大根とトウモロコシのまわりを、たくさんの野菜と果物が取り囲みます。涅槃図で釈迦の死を嘆く菩薩や羅漢、動物たちが、ここでは野菜と果物で表されています。
伊藤信博氏の論文は、大根の足元と枕元の左右に蕪が配置されている点に注目しています。涅槃図で釈迦の足元と枕元に重要な弟子が描かれるのと同じ配置だ、という指摘です。
60種以上の果蔬を探してみる
e国宝の解説によると、画面には60種以上の野菜と果物が描かれています。数え方は研究によって異なり、66種類や63種類とする先行研究があるほか、伊藤信博氏の論文は原版写真を拡大して検討し、88種類と考察しています。
まず見つけやすいのは、次の3つです。
- 左下の、濃い墨で塗られた大きな西瓜
- 右下の、くびれのある鹿ヶ谷南瓜
- 画面の下部に描かれたトウモロコシの実
(図:《果蔬涅槃図》部分 左下の西瓜/出典:ColBase)
(図:《果蔬涅槃図》部分 右下の鹿ヶ谷南瓜とトウモロコシの実/出典:ColBase)
ほかにも同論文では、蓮根、栗、加茂茄子や山科茄子などの茄子、4種類の蕪などが挙げられています。茸については、松茸とする見方と椎茸とする見方があります。反対に、葱や牛蒡、芹、人参などは描かれていないことも指摘されています。
野菜を墨で描いてみたくなった方は、かぶの描き方も参考にしてください。
なぜ釈迦は大根なのか|青物問屋の若冲と、いくつかの説
若冲は京都・錦市場の青物問屋の主人だった
伊藤若冲は、京都・錦小路にあった青物問屋「枡屋」の長男として生まれ、家業を継ぎました。40歳で弟に家督を譲ってからは、画業に専念したと伝えられています(ジャパンサーチ「伊藤若冲」、伊藤信博氏の論文)。
青物問屋の主人として日々親しく接したであろう野菜や果物の描写が、それぞれの特徴をよくとらえていると評価されています。
家族への想いと家業の繁栄を願ったという見方
若冲は早くに父を亡くし、安永8年(1779)には母を亡くしました。二人の弟にも先立たれ、妻帯もしていません。本作には亡くなった家族の冥福を祈り、あわせて家業の繁栄を願う想いが込められているのだろう、と推測されます。
豊穣の象徴、飢饉への備えという説
伊藤信博氏の論文は、別の角度から大根の意味を探っています。
- 大根は江戸時代に副食として主要な野菜で、『享保・元文諸国物産帳』から割り出すと、野菜の総生産数に占める割合は平均12.1%で第1位だった
- 二股大根は大黒天や聖天への供物とされ、豊穣をもたらす野菜と考えられてきた(能登の「あえのこと」の神事など)
- 豊穣を祈りつつ、飢饉の際には五穀の代わりにもなる大根を中心に据え、保存食や非常時の食料にもなる京都の名物の野菜や果物を周りに配したのではないか
また同論文は、草木までもが成仏するという「草木国土悉皆成仏」の思想によって描かれたとする研究者がいることも紹介しています。どの説が正しいと決まっているわけではなく、いくつもの読み方ができる作品です。
制作時期には諸説ある
《果蔬涅槃図》は晩年の作とされることが多い作品です。e国宝の解説によると、印影からは最晩年の寛政6年(1794)から同12年(1800)の間に描かれた可能性がある一方、様式からもっと早い時期の作とする見方もあります。
水墨画として見る|濃淡の配分・筋目描き・にじみ・かすれ
ここからは、水墨画を描く立場から見どころを紹介します。
60種以上を描いても散らからない濃淡の配分
多くのモチーフを描きながらも、構図と墨の濃淡の配分のバランスが保たれていることがこの作品の魅力です。濃い墨から淡い墨まで濃度が使い分けられているので、どこに濃い墨を置き、どこを淡く残しているかに注目してみてください。墨の濃さについては墨の選び方も参考になります。
黒い西瓜と白い大根
画面を見比べると、左下の西瓜は濃い墨で大きく塗られ、ひときわ黒く目立ちます。一方、釈迦にあたる中央の二股大根は淡い線で描かれ、紙の白が多く残されています。
この黒と白の対比に加えて、上部のトウモロコシの葉に見られる、濃淡の変化と勢いのある筆づかいにも注目してみてください。
筋目描きとは
若冲の作品にしばしば見られる技法に「筋目描き(すじめがき)」があります。墨と墨の境目に白い筋が浮かぶ表現で、吸湿性の高い画箋紙の性質を活かした高度な技法だと紹介されています(インターネットミュージアム「若冲激レア展」レポート)。
e国宝の解説によれば、《果蔬涅槃図》にも筋目描きが使われています。
にじみとかすれ
筋目描きのほかに、墨のにじみやかすれも駆使されています。にじみは水分によって墨がぼけて広がる表現、かすれは墨の少ない乾いた筆が紙に擦れてできる表現です。
にじみやかすれを自分の筆で試してみたい方は、水墨画の練習方法をご覧ください。
筋目描きを動画で見る|小林東雲先生の実演
若冲の「鷹図」を題材にした実演
以下の動画は、小林東雲先生(こばやし とううん)による実演で、国際墨友会のチャンネルで公開されています。題材は《果蔬涅槃図》ではなく、若冲の「鷹図」です。動画のサムネイルには、鷹図の見どころとして、デザイン化された豊かな表情や、すじ目描きによる羽根の表現が書き込まれています。
動画で見るポイント
見るときは、次の2点に注目してみてください。
- 墨と墨の境目に、白い筋が残る様子
- 鷹の羽根が、一枚一枚重なって表されていく様子
まとめ|果蔬涅槃図の見どころと、実物・高精細画像を見るには
見どころの振り返り
- 《果蔬涅槃図》は、涅槃図を野菜と果物で描き替えた伊藤若冲の水墨画
- 二股大根が釈迦、8本のトウモロコシが沙羅双樹、60種以上の野菜と果物が嘆く者たち
- 大根が釈迦である理由には、家族への想い、豊穣の象徴、飢饉への備えなどの説がある
- 濃淡の配分、筋目描き、にじみ、かすれが水墨画としての見どころ
作家と水墨画の関係をもう一人たどりたい方は葛飾北斎と水墨画を、若冲が多く描いた花鳥画に興味がある方は竹と燕で学ぶ花鳥画の入り口をご覧ください。
京都国立博物館の所蔵品をColBaseとe国宝で見る
《果蔬涅槃図》は京都国立博物館の所蔵品です。展示は時期によって異なるため、実物を見たい方は同館の展示情報を確認してください。
高精細な画像は、国立文化財機構のColBaseやe国宝で見られます。作品データは京都国立博物館 館蔵品データベースにも掲載されています。画像を拡大して、この記事で紹介した野菜や果物を探してみてください。
よくある質問(FAQ)
果蔬涅槃図とはどんな絵ですか?
釈迦の入滅を描く涅槃図を、野菜と果物で描き替えた伊藤若冲の水墨画です。京都国立博物館が所蔵する重要文化財で、紙本墨画です。
なぜ釈迦が大根なのですか?
答えは一つに決まっていません。若冲が京都の青物問屋の主人だったことに加え、亡くなった家族の冥福と家業の繁栄を願ったとする見方(e国宝の解説)や、大根が豊穣の象徴で、飢饉の備えにもなる野菜だったことに注目する説(伊藤信博氏の論文)があります。
何種類の野菜や果物が描かれていますか?
e国宝の解説では60種以上とされています。研究によって数え方が異なり、66種類、63種類、88種類とする考察があります。
沙羅双樹は何で描かれていますか?
8本のトウモロコシで描かれています。画面の下部には、トウモロコシの実も描かれています。
果蔬涅槃図はふざけて描かれた絵ですか?
京都国立博物館の解説は、戯画の一種とみることもできるとしています。一方でe国宝の解説は、真剣な制作の動機とユーモアは両立しうると述べ、亡くなった家族を想う若冲の祈りが込められているという見方も示しています。
筋目描きとは何ですか?
墨と墨の境目に白い筋が浮かぶ表現で、吸湿性の高い画箋紙の性質を活かした技法だと紹介されています。e国宝の解説によれば、《果蔬涅槃図》にも使われています。
いつ描かれた作品ですか?
晩年の作とされることが多いものの、制作時期には諸説あります。印影から最晩年の寛政6年(1794)から同12年(1800)とする見方と、様式からより早い時期とする見方があります。
果蔬涅槃図はどこで見られますか?
京都国立博物館の所蔵品です。展示は時期によって異なるため、同館の展示情報を確認してください。高精細な画像は ColBase や e国宝で見られます。
墨絵アーティスト・カリグラファー 西洋カリグラフィーと墨絵を融合させた独自のスタイルを確立し、文字と線、余白が響き合う作品を制作しています。この東西の技法の融合により、文化の境界を越えた新しいアートの可能性を探究しています。 現在は国際墨友会理事として活動し、Art Beyond Boundariesでは審査員特別賞「三田村有純賞」を受賞しました。伝統を大切にしながら、現代に生きる墨絵の表現を世界に向けて発信し続けています。